カフェ頼政道

「第121回 カフェ・頼政道」 5月15日

終了しました

「朗読グループ フィオリの会」


「言霊に心奪われる時」13:00~14:00


11:30~13:00 
ランチ・喫茶タイム
13:00~14:00 

フィオリの会
カフェ頼政道とフィオリの会との出会いは、2010年11月。ろうそくの薄明りと静寂の中で聴こえてきたのは、単なる朗読や言葉ではなく、まるで作品の命が語りかけてくるような人間の喜怒哀楽と、人の声の強さ暖かさでした。この時から私たちは、フィオリが好きになり、やみつきになりました。最多6回のご登壇、今回はどんな作品に出会えるでしょうか。どんな自分に出会えるでしょうか。


 フィオリの会 20150515
 今日のランチはハヤシライス、手作りドレッシングのかかったサラダとオレンジでした。お味?最高でした。
 さて、今日のカフェはフィオリの会の朗読会。
 9人の方においでいただき、朗読を聞かせていただきました。登場順に紹介いたします。

1. 『三等車』  佐多 稲子 作 岩城貞子さん、服部畝実さん 朗読 昭和の作家 佐多さんの短編。

 若い人には先ずわからない。タイトルの「三等車」。
 その一部を紹介いたします。
 「母親は、赤ん坊にミルクを飲ませながら、一家の事情をぼつぼつと語リ始める。
 去年、いまよりもっと幼かった二人の子を連れて東京に出てきたこと。物価の高い東京では親子四人の暮らしが立ち行かないこと。母子だけ故郷の鹿児島に帰ることになったこと。
 出て来たときも、帰るときも、夫の言葉に振り回されてのことらしい。若い母親は、「男って、勝手ですねえ。封建的ですわ」と、吐き出すように言う。
 周囲の乗客は、若い母親の話を聞くともなく聞いている。三等車内に生まれる同情と共感の空気。「私」は、ひざに上の男の子を抱いている。闇の座席を買った罪滅ぼしのように。
 目覚めた男の子は、窓の外の移り変わる景色を目で追いながら、「とうちゃん来い、とうちゃん来い」と、歌うようにつぶやく。


2. 『さかなは さかな』  谷川俊太郎 訳 金澤 重子さん 朗読

 「さかなはさかな」というと、分相応をわきまえるということです。成長した魚は、カエルの話を聞き、羨ましくなって、自分も外界を見てみたいと思って岸に跳ね上がる。しかしうまくいかない。そして自分の分相応を理解するのである。
 誰にだって頑張ってみてもできないことだってある。いくら望んだってかなわないことだってある。努力することで、できるようになることももちろんあるが、この魚のように、水中で生きる生物に地上に上がって生活しろ、と言ってもそれは到底無理なこと。魚は「さかなはさかな」であることを痛感するが、色鉛筆で描かれた背景のせいでしょうか、それほど教訓的には聞こえない。見たこともない景色をどうしても見たいとい純真な気持ちに温かい共感を、ということでしょうか。


3. 『夕焼け』・『好餌』     吉野 弘 作 梅原陽子さん 朗読
あるサイトが『夕焼け』を載せていますので紹介いたします。

「いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて---。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで」


4. 『私のもの忘れ』 門阪 庄三 作 岩城貞子さん 山本和子さん 朗読

 私が作った認知症漫才『僕のもの忘れ』の女性版。
 もちろん女性言葉に変えての上演です。女性ならではリズムが最初から参加者の気持ちを掴む。会場は大きな笑い声が溢れました。


5. 『なにご』     木島始 作   全員で 朗読

  黒人芸術に関する木島さんの本「詩・黒人・ジャズ」を45年前に読んだことがあります。懐かしい人です。その方が書いた詩、ちなみに「なに語」ではありません。


6. 『ぬすび面』  吉橋 通夫 作  伊藤和子 楠井智子 朗読

 あらすじは以下のよう。

 文吉は、この春行われる壬生狂言の新演目で使う盗人の面を彫ることを、軽い気持ちで引き受けた。しかし、仕事は一向に進まない。そんなある日、家に本物の盗人が入って包丁で脅して挙句に赤ん坊を押し付けられた。文吉はこの盗人の顔に着想を得てなんとか面を完成させ、押し付けられた子供は妻のおふじに育てた。
 後に、この盗人・伝蔵は捕縛された。文吉は伝蔵が盗みではなく、家々に間引きされそうになった子供を脅しながら押し付けて回ったことから入牢した、と役人から聞く。文吉が見た牢屋の中の伝蔵は何かをにらみつけていた。その時文吉は伝蔵の表情から彼がこの世の不条理、許されざることに怒りをこめている、子を間引く親だけでなくそれを許している社会全体をにらみつけているのだと初めて理解した。文吉はもう一度、あの「ぬすびと面」を彫りなおそうと思った。


7. 『夕方の三十分』 黒田三郎 作

コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分

僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮らしたので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

「ホンヨンデェ オトーチャマ」
「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼きをかえそうと
一心不乱のところへ
あわててユリが駆けこんでくる
「オシッコデルノー オトーチャマ」
だんだん僕は不機嫌になってくる

化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨー オトー」
「ハヤクー」

かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く

それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
おやじは素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向かい合ってふたりすわる。

8. 『再会』   幸田 文 作      今里 弘美さん 朗読

 6,7年前の一時期 むさぼるように幸田さんの本を読みました。いまでもときどき気になる方です。久しぶりに幸田さんの本に触れると、私がこの方から大きな影響を受けたことがわかリます。そして幸田さんと再会出来ました。その「再会」の最後の部分を掲載いたします。

 『・・・すみれの咲いたその日の午後、二年ぶりのひとが訪れてくれた。アフリカに滞在して、植物のことをしらべていたのだが、このほど帰国したときいていた。私の植物の先生である。私が勝手に自分の先生だときめていて、見境いもなく教えをせがむ。するといかにももの静かに、丁寧に返事をして下さる。
 それを私はたちまち忘れる。にこにこしてもう一度おしえてくれるという工合である。静かで、忍耐強くて、悠悠としていて、そしてやさしい。私はもう年齢だから、アフリカへ行かれてしまった時は淋しかったが、こうして帰ってみえたうれしさはまた格別だった。先生は二年前も今と同じ調子で、おだやかにアフリカを語った。「噛まれたがさいご、四十秒、という猛毒の蛇もいるんですが、だからといって蛇にばかり神経たてているわけにはいかず、でもさいわいに無事に帰ってきました。』
 先生の話をきいているあいだは、感化されて私もゆったりした心境になって、毒蛇もやたらと人を襲うものじゃない、などと心ひろく、いい人間になる。まるで、きのうの今日、のような平安で穏和な、二年ごしの再会だった」

 フィオリの皆さんの朗読を聞くと、みなさんの朗読は素晴らしいなぁと
感心すると同時に考え込んでいます。自分が日頃言葉をいかに粗末に扱っているか、を考えてしまう。どうしたら満足の行く表現ができるか。元々持っている声や自己の持っている感情の質、相手に届けたいと言う思いなど総合的な問題だとは思いますが、自分の力の足りなさを考えこんでしまいます。
 なんとか、フィオリの会の皆さんをお手本に前を向いて頑張ります。
 岩城貞子さん、服部畝美さん、金澤重子さん、梅原陽子さん、伊藤和子さん、川口繁子さん、楠井智子さん、今里弘美さん、山本和子さん。ありがとうございました。
 来年もご公演を楽しみにしています。よろしくおねがいいたします。