カフェ頼政道

「第91回 カフェ・頼政道」 10月5日

終了しました

「富岡製糸場『富岡日記』から学ぶ」


「富岡製糸場『富岡日記』から学ぶ」


11:30~13:00 
ランチ・喫茶タイム
13:00~14:00 

富岡製糸場『富岡日記』から学ぶ
野口孝子さん

和田英(わだえい)は16歳の明治6年、群馬県富岡につくられた官営富岡製糸場の伝習工女として、長野県松代の同郷女子15名とともに出立した。このとき、技術の習得に努めた1年数ヶ月の日々の回想が「富岡日記」に綴られている。その観察眼の鋭さ、10代女性の揺れ動く心、それらを生き生きととらえた瑞々しい文章…時代は「殖産興業」を旗印に、日本が工業立国として動き出そうとしていた。日本初の工場制機械工業を創り、近代の礎となる時代を生きた一人の女性の物語。工場に掲げられた「繰婦(そうふ)勝兵隊」は、初の女性社会進出とも読み取れます。


「富岡日記」から近代産業の興りを知る

今日は、同志社女子大学講師の野口孝子さんより、今年話題となった富岡製糸場について学びました。野口孝子さんのご主人、野口実さんも日本史の教授で、これまでカフェ頼政道で2回ほど源頼政などについて講演頂いています。
 さて、その富岡製糸場、今年6月に世界文化遺産に登録されてからというもの、観光客がどっと押し寄せ、レンガ調の床が傷まないような配慮がされているとか。他の例にもれず、文化遺産登録によってその保護が危ぶまれる憂き目に遭っているようです。 「富岡日記」は、長野県松代区から伝習工女として出向した当時15歳の和田英(わだ・えい)が、後年、病床の母に聞かせながら書いた回顧録です。富岡製糸場とは言うなれば、文明開化した日本が世界に肩を並べようと興した殖産興業の旗印。富国強兵を支えるべく、伊藤博文、渋沢栄一等がフランス人の技術協力を仰ぎ、明治5年、国営の模範工場として設立されました。ちょうどその頃、ヨーロッパで蚕の伝染病が流行ったこともあり、実際、日本は絹の輸出で外貨を稼ぎました。
 富岡製糸場は国がその威信をかけて建設しただけあって、立派な製糸器械や、それを動かす石炭ボイラーを動力源としたエンジン、洋風木骨レンガ造の工女寄宿舎など、15歳の少女を感嘆させるものばかり。きっと、絹糸も上質だったことでしょう。労働環境もよく、1日8時間労働や等級別給料が定められ、毎日お風呂、休みの日には和服に高下駄ファッションでショッピングといったワークライフ。この官営工場には、大正後期の「女工哀史」は無かったと言います。その製糸技術が和田英のような伝習技術者によって日本各地に広められました。
日本は上昇気流の中、明治後半の日清・日露戦争に勝利し、大正3年の第一次世界大戦に進んでいきます。その頃には、明治初期にあった官営工場の輝きはなく、完全に民営化され労働環境は劣悪、日本国中が「女工哀史」時代となってしまいます。それだけに、和田英は、富岡製糸場の輝ける開業時代を懐かしく、誇らしく語ったのでしょう。  私たちは日頃、戦後復興という言葉をよく耳にしますが、今日は戦前の興業スピリットを感じることができました。そこには、戦国時代から長年培われた武士のプライドが息づいているように思えます。長野県松代区から出向した和田英ら少女16名は全員武士の娘。彼女らが言った「お国のため、お家のため」という言葉は今では少々古めいていますが、では、私たちのプライドとは何なのでしょうか。「地域のため、家族のため」と言い換えると、私たちも何ら変わらず彼女らの100年後を生きているのでしょう。今から約850年前、カフェ頼政道辺りを凱旋した頼政も、日本のプライドを培ってくれた偉大な先輩でした。
 歴史を学ぶことは、今を考えることにつながります。私たちの今が、次の豊かな今になることを願わずにいられません。
 富岡製糸場は技術遺産であり、また、日本人の心意気を映す文化遺産でした。野口孝子さん、貴重な1時間をありがとうございました。